SPECIAL FEATURE
映像の持つ情報量は、画像やテキストに比べ格段に多い。まさに、確実で理解しやすいことを強調することわざ「百聞は一見にしかず」。歴史的な戦争、革命、社会変動などを記録した映像は、その時代の雰囲気や感情、重要な瞬間をまるで「体験」しているかのように感じさせ、臨場感を与える。また、歴史を単なる出来事の羅列として見るのではなく、具体的な人々の人生や選択、感情を通して歴史を感じることができ、歴史を単なる過去の記録にとどまらない「生きている」ものとして理解でき、いまでも続く影響を感じ取れる。
一方で、記録映像には、撮影者側の「論理」と「事情」が存在するのも確かで、単純に映像から発信される情報を受け取っていればいいわけではない。また、記録映像は、全体の一部を切り取られたものも多く、情報のすべてを伝えているわけではない点に注意し、「誰によって」撮影されたかの出所を明確にする必要がある。実際の教科書事例を見ても、教科書の画像やテキストと、記録映像とをハイブリッド化したものが多く見受けられる。
文字を持つ文明では、筆記具があれば、古代から文字や絵を記録できたが、仮に、1826年に、ニセフォール・ニエプスが撮影した写真が世界初、また1891年にトーマス・エジソンが開発した「キネトスコープ」が映像メディアの始まりとすると、写真は約200年前、動画は約130年前、それ以前の記録写真と記録映像は存在しない。
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Category : 動画
Date : 2024.10.08
テレビの教科書 ‐ ビジネス構造から制作現場まで ‐(碓井 広義著/PHP研究所刊)
大恐慌のアメリカ(林 敏彦著/岩波書店刊)
歴史をつかむ技法(山本 博文著/新潮社刊)
1929~33年世界大恐慌について(日本銀行金融研究所)
婦人雑誌にみる近代日本~明治から昭和前期にかけて~(神奈川県立図書館)
破綻銀行処理の日米比較(独立行政法人経済産業研究所)
1929年当時、米国の人口は約1億2,180万人、日本は約6,346万1千人。日本は大正時代(1912-1926)の民主主義的な動きが引き続き見られる一方で、昭和時代(1926年以降)に入り、軍国主義や国際的な緊張が次第に高まりつつあった時期だった。雑誌「主婦之友(1917年創刊)」や「婦人公論(1916年創刊)」の表紙には、流行の洋装を身にまとった女性のイラストや写真が登場し、モダニズムや西洋文化の影響が日本社会に強く浸透していたことがうかがえる。1923年9月1日に発生した関東大震災の後、1927年には震災手形の問題をきっかけに日本で金融恐慌が発生。さらに1929年10月21日、米国ニューヨーク証券取引所の株価大暴落(Black Thursday)が世界恐慌の引き金となり、米国の農家の収入は約50%減少、1932年11月には米国労働者の約5人に1人が失業する状況に陥った。
景気が悪化した日本では、人々の不満が積み重なり、次第に軍部が権力を強めるようになった。1931年には満州事変が勃発し、1936年には陸軍の青年将校たちが「二・二六事件」として知られるクーデターを試みた。こうしてファシズムが徐々に広がり、第二次世界大戦の幕が開けることとなる。日本の出版界では、関東大震災後の不況を打破するため、1926年頃から大衆向けに1冊1円の廉価版全集が発売され、広く人気を集めた。婦人雑誌も、着物の型紙や家計簿など実用的な別冊付録を付けることで競争し、販売を促進。「主婦之友」の1934年(昭和9年)新年号は、15大付録を付け、「お買いになる方は風呂敷をお持ちください」というキャッチフレーズが話題に。小説家アーネスト・ヘミングウェイは、作品「陽はまた昇る(1926年)」と「武器よさらば(1929年)」で、戦争がもたらす虚無感を鮮やかに描き出した。
米国では1929年10月24日の株価大暴落を契機に、工業生産と物価が急落。1933年に至る約3年半にわたり、極めて激しい大恐慌状態に陥った。1920年代には3万行以上あった銀行数は、1933年には1万5,000行を下回った(2022年:4,097行)。失業者への救済、経済回復の促進、そして将来の危機を防ぐための金融システムの改革を目的に、当時の米大統領フランクリン・ルーズベルトは、のちに「ニューディール政策」と呼ばれる大恐慌に対処するプログラムや改革を実施した。成果については諸説あるが、短期的な救済には成功したものの、経済全体の構造的改革には限界があったとする評価が支配的で、第二次世界大戦の勃発が最終的に需要を押し上げた。
1939年9月1日午前4時45分、ドイツがポーランドに侵攻。9月3日に英国とフランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。また、日本時間1941年12月8日未明、日本軍が、米国ハワイ準州オアフ島真珠湾にあった米国海軍の太平洋艦隊と基地を突如空襲した(真珠湾攻撃)。そのおよそ1時間前には、英国領だったマレー半島(現在のマレーシア)にも日本軍が上陸。日本は米英との戦争に踏み込んでいった。
1941年に入ると、日本は用紙統制の強化と共に雑誌の統合整理が行われ、婦人雑誌も例外ではなかった。自由な編集は許されず、当時の求められる理想の女性像だった、勤勉に働きに安心感を与える温かい笑顔が表紙を飾り、「主婦之友(1945年7月号)」は「勝利の特攻生活號」、「婦人之友(1945年6/7月号)」は「一億農兵隊」という記事を掲載。「不要不急誌」とされた「婦人公論(1944年3月号)」は、最後に戦争協力の姿勢を打ち出したものの、この号を最後に「中央公論」に吸収される形で実質上休刊。「中央公論」自体も1944年7月には、内閣情報局から戦争への非協力的態度を非難され自主廃業に追い込まれ、廃刊を余儀なくされた。
第二次世界大戦に勝利した連合国は、1944年にIMF(国際通貨基金)と世界銀行(国際復興開発銀行)を、1947年にGATT(関税および貿易に関する一般協定:現WTO)を設立し、戦後の国際経済秩序の基盤づくりと、経済復興と発展を推進する。
米国は、1929年に起きた大恐慌は、世界経済の運営に責任を持つ国がいなかったために起こった出来事と解釈し、第一次世界大戦終結時のパリ講和会議(1919~1920年)での準備不足、国際連合への不参加による甚大な被害、経済問題が平和の最も大きな妨げとなったことへの反省、という3つを教訓に、国際的な経済管理の必要性を認識して行動したという。1943年4月には、英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズと、米国の財務省特別補佐官のハリー・ホワイトが、のちのIMFと世界銀行の発足につながる国際金融体制案(ケインズ案とホワイト案)を、米英両国の間で討議した。
戦後の日本では、GHQが民主化を促進するために雑誌メディアを活用し、特に婦人雑誌を通じて世論形成を試みた。中央公論社や改造社はGHQの勧告で「婦人公論」や「女性改造」を復刊し、主婦之友社や講談社もGHQの意向を受けて発行を継続。「主婦之友(主婦の友)」1945年11月号には「平和建設と家庭 - アメリカ従軍婦人記者の座談會」といった記事が掲載された。一方で、戦後新たな雑誌が創刊され、女性の生活が多様化する中、1948年9月には「美しい暮しの手帖(暮らしの手帳)」が創刊され、一時期は90万部を超える発行部数を誇った。1957年3月には「週刊女性」などの新興誌が登場し、旧来の主婦向け雑誌は徐々に姿を消していった。
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